2011年03月31日

「進むべき道」 山崎×土方

山崎×土方連作第5弾です。
黎明録と薄桜鬼本編のちょうど間あたりの話。
芹沢局長暗殺事件の1ヶ月後くらいの話です。
なので、100%捏造です。
前作が黎明録土方ルートを前提にしておりますので、それについてのネタバレを含みます。
ご注意ください。





ご了承頂ける方のみ、本文へお進みください。









 その日は朝から一段と冷え込みが厳しかった。
 吐く息は白く、水瓶や井戸には氷が張り、ただ立っているだけでも足元からじわじわと冷気が伝わって、思わず身震いしてしまう。
 しかし、だからと言って、いつまでも布団の中でぬくぬくと暖を取ってはいられない。
 いつも通り、夜明けとともに起き出すと、俺はそのまま早朝の見回りを開始した。
 平隊士達の部屋を巡り、不審な点がないかを確かめ、幹部の方々を起こさぬように、そのまま庭へと回り込む。
 幸いなことに、今朝は何一つ変わった事態はなさそうだ。
 この時間、月に幾度か酔い潰れた永倉さんが玄関や庭先で眠っているのを発見するが、どうやら今朝は、あの方も無事に自分の布団で休まれているらしい。
(まったく……。息抜きが大事なのは理解出来るが、それでももう少し、永倉さんや原田さんには、酒の量を控えて頂けるといいのだが……)
 そんなことを考えながら、俺は門までやって来る。
 そうしてふと、何気なく立ち止まると、俺は普段は滅多に立ち入らない隣の建物……前川邸に視線を移した。
「……」
 夜が明けて間もない時刻、周囲に他に人影はない。
 いや……同じ敷地にありながら、昼間に活動する者がいないあの建物は、いつ見ても、大抵静まり返ったままだ。
 まるで、人ならぬ者達が宵闇を待ちながら、息を潜めているかのように。
「ッ……!」
 直後。
 静かな朝の光景に、不意にただならぬものを覚え、俺はきつく眉を寄せる。
 瞼の奥には、声を無くして組織を離れた友の姿と、かつてこの館の主であった豪胆な男の顔が、浮かんでは消えていった。
 ……。
 彼等がこの屯所から姿を消して、既に一月が経とうとしている。
 かつて組織の幹部であった芹沢、新見の両名が死に、井吹が新選組を離れ、平間は依然消息不明。
 一月前まで住んでいた人間の全てを失い、部屋は何処も片付けられ、もうこの屋敷に過去を偲ばせるものはない。
 代わりに今、ここを根城にしているのは、隊を裏切り白髪の化け物に変えられた、愚かで憐れな男達だ。
 ……そう。
 新見さんが死に、雪村綱道という蘭方医が姿を消しても、幕府から新選組に与えられたあの密命が取り消されることはなかった。
 そのことに、当初土方さんは落胆と苛立ちを隠せないご様子だったが……。
 しかしあの方は、結局新選組の発展と、近藤局長を相応の地位に担ぎ上げる目的のため、その命に従うことを決断された。
『近藤さんを本物の武士にするためなら、俺は何だってやってやるさ』
 初めて俺が羅刹を目の当たりにしたあの夜に聞いた決意の言葉を、副長は今も頑なに守っていらっしゃる。
 それを思えば、俺も自分に出来る限りのことをしていかなければと、決意を新たにしないではいられない。
 そうだ。
 副長が近藤局長を盛り立てようとするように、俺は副長を支え、その目的のために尽力したいと考えている。
 その想いは、この屯所へ初めて来た日から変わらない。
 いや、むしろそれは強くなる一方だ。
『……んな大事なこと、忘れる訳がねえだろうが。俺がようやく聞けたお前の想いを、忘れるような薄情な奴だと思ってんのか?』
(土方さん……)
 胸の内で名を呼べば、鼓動が不意に小さく跳ねる。
 ……。
 俺はあの方を愛している。
 そして副長は、こんな身の程知らずな俺の想いを、受け入れて下さった。
 剣の道を極めんとする崇高な思い、己が信じる正義を貫こうとする志。
この新撰組の者達が戦う理由はそれぞれだ。
多くの隊士達に比べても、俺がここに籍を置き、戦う理由はとても恣意的と言えるだろう。
 が、しかし……、それでも俺は、己に対し、恥じるところは全くなかった。
 ……当然だろう。
 己が全てを賭す際に、これ以上の理由が他にあるだろうか?
「っ…!」
 そこまで考えて、俺はまた、表情を引き締める。
 あの夜から、「上役と部下」だった俺達の関係は、ほんの少し変化した。
 勿論、このことは内密だ。
 だから表面的な振る舞いや言動には、変わりなどある筈もない。
 それでもこの一月の間に、副長の部屋を訪れた際、俺は彼の手や唇、長い髪に触れることを幾度も許して頂いた。
 俺にはそれで充分だった。
 元々俺は、副長に想いを告げる気はなかったのだ。
 自分にとって一番の望みは、この新選組で、あの方と同じものを目指し、あの方の命じるままに手足となって働くこと。
 あの言葉は、自身をその立場置いて頂く信頼を得る為に、口にしたものに過ぎない。
 だから……今の俺は、過分な程に幸福だ。
 この一月、副長は監察方の仕事の中でもより重要な役目に俺を指名してくださるようになった気がする。
 それはきっと錯覚ではないだろう。
 それに……あの方は報告で二人になった時、時折俺に胸の内に抱えておられる不満や葛藤、憤りを見せてくださるようになった。
 俺にはそれが何よりも嬉しかった。
(副長……)
 瞼の奥に、愛しい人の横顔が浮かび、思わず小さく息を詰める。
 その時だ。
「山崎」
 不意に潜めた低い声に名を呼ばれた。
 振り向けば……一体いつからそこにいたのだろう。
 門の傍から斎藤さんが、じっとこちらを見詰めている。
「……斎藤さん」
 その視線に冷たく厳しいものを覚え、俺は思わず目を見張る。
 すると寡黙な上役は、俺の顔を見据えたまま、また静かに唇を解いた。
「こんなところで何をしている?前川邸は、幹部以外の出入りは禁止だ。あんたが事情を知っているのは、無論承知しているが、だとしても不用意に近付くべきではないだろう」
(……確かにそうだな)
 受けた指摘に得心し、俺は素直に頭を下げる。
「失礼しました。見回りでここへ立ち寄ったのですが、確かに斎藤さんが仰る通り、みだりにこの場で足を止めるべきではありませんでした。以後、気をつけます」
 だが、俺が謝罪を口にすると、斎藤さんは逆に小さく微笑した。
「いや……見回りならば構わない。俺の方こそ、邪推したうえ仕事を邪魔して、すまなかったな」
「いえ、そんな……。誤解を与える振る舞いをしたのは、こちらですから」
 幹部の方から、こんなふうに言われては、やはり恐縮してしまう。
 俺が慌ててそう言うと、斎藤さんは俺を見たまま、小さく一つ頷いた。
「しかし、あんたは勤勉だな。早朝の見回りは、毎朝行っているのだろう?」
 問われて今度は、俺が軽く顎を引く。
「はい。しかし俺は、皆さんと違って巡察には出ませんからね。このくらいは当然だと思っています」
「いや、そうは言っても、監察方の任務では、夜明け近くに戻ることもあるだろう。不規則な生活の中で常に己を律していくのは、やはり容易なことではない。……副長が、あんたを頼みにするのもわかるな」
「っ……土方さんが?」
 刹那。
 不意に出されたその名前に、俺の鼓動が小さく跳ねる。
 が、俺の動揺を物ともせずに、斎藤さんは端的に「ああ」と顎を引いた。
「土方さんは、俺達古参と同じくらい、あんたのことも信頼している。そんなことは、見ていればよくわかることだ」
「……」
「……どうした、山崎?」
「い、いえ、何でもありません。その………そう仰って頂けて光栄だなと思っただけで…」
 動揺したまま、ついそう口走ってしまったが、顔が赤く染まっているのは、上手く誤魔化せたのだろうか?
 そう思えば、表情を取り繕うことさえ出来ない自分に、舌打ちしたい気持ちになる。
 しかし、斎藤さんは、どうやら納得されたらしい。
 暫し何かを思案した後、彼はまた「そうか」とぼそりと呟いた。
(良かった……)
 副長との関係は無論誰にも明かせない。
 不意に訪れた難局を乗り切って、俺は胸を撫で下ろす。
 そうして俺は、気持ちを切り替え、口許に小さな笑みを貼り付けた。
「それにしても、斎藤さんも今朝は随分早いんですね。俺から見れば、勤勉というのは、むしろ貴方に相応しい言葉だと思うのですが」
「俺が?」
 逆にそう告げてみると、俺の言葉に寡黙な彼は、珍しく少し意外そうな顔をする。
 それを見て、俺は小さく肩を竦めた。
「はい。貴方の隊は、昨日深夜の巡察を担当していたでしょう。なのに貴方は、こんなに早く起きている。多分三番隊の隊士達は、まだ眠っていると思いますよ」
 苦笑混じりにそう告げると、斎藤さんはまた何やら思案顔になる。
 が、しかし……。
「俺は、必要がある故起きただけだ。今朝は早くに出掛ける用があるからな」
 生真面目な顔をして、彼はそんなことを言う。
「用事、ですか?」
 鸚鵡返しに尋ねると、斎藤さんは小さな顎を縦に引いた。
「ああ、会津潘邸まで局長、副長方の供をしてくる。例の幕命の件について朝一番に報告に来いと、内々に通達があったらしい」
「っ……あの薬のことで……」
 刹那、告げられた言葉を聞き、俺は思わず眉を寄せる。
 斎藤さんは、静かな瞳で俺を見遣り、また一つ頷いた。
「そうだ。だが、どうやら我々にとって、歓迎出来る内容ではなさそうだ。恐らくは例の薬の開発を急げ。一刻も早く雪村綱道を探し出せと、責っ付かれることになるだろう。そう、副長も言われていた」
「……」
 斎藤さんの低い声を、俺は何処か上の空で聞いていた。
『そういう問題じゃねえんだよ!!』
 山の緒で見た光景が、あの時聞いた副長の悲痛な声が、ありありと蘇る。
 ……。
 変若水や羅刹達は、今徹底した管理の下に置かれている。
 指揮しているのが、近藤局長や土方さんである以上、あのような事態になることなど、到底無いと断言出来る筈なのだが……。
 そう理解しながらも、俺はあの薬の存在に嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

『今後も継続して、変若水の研究に取り組むべし』
 その命令が下されたのは、芹沢局長の葬儀から数日後のことだった。
『はあ、マジかよ?あの薬は、人を化け物に変えちまうんだぞ。どんなに強くなったって、血に狂っちまったら、戦力になんてなりゃしねえよ!!』
『まったくだぜ。……幕府の奴ら、一体何考えていやがるんだ?連中は羅刹を実際見ちゃいねえから、事の重大さがてんでわかっちゃいねえんじゃねぇのか?』
 雪村氏が失踪し、変若水の開発自体が中止になると踏んでいたのか、この決定に藤堂さんや原田さんは、憤りを隠さなかった。
 あの方々は、実際羅刹と幾度も剣を交えている。
 血に飢えた白髪の化け物が、これ以上無作為に生み出されることに、彼らは危惧を覚えたのだろう。
 だが、そんな二人を制したのは、同じように立腹しているに違いない、俺の大切な人だった。
『お前らの言い分は尤もだ。このまま変若水の研究を続けるなんざ、狂気の沙汰だ。んなことは、俺もわかっているさ』
『だったら……』
『だがな……俺達新選組は、会津藩のお預かりだ。組織を解散させられたくなきゃ、会津の……幕府の命令には、従うしかねえんだよ。それが例え、どんなに胸糞悪いもんだとしたって、な』
 副長から苦々しくそんなことを言われては、誰も否とは言えないだろう。
 結局幹部の方々は、渋々ながらこの決定を受け入れた。
 今は山南副長が、僅かに残った資料や薬、羅刹達を管理され、事情を知る俺や幹部の方々が、街に出て雪村氏の行方を追っている。
 あれから一月。
 連日の懸命な捜索にも関わらず、今のところ手掛かりは何も得られていない。
 が、だからと言って、諦める訳にはいかない。
 俺達には、為すべきことが、目指すべき場所がある。
 新選組は、こんなところで立ち止まる訳にはいかないんだ。
 ……。
『原田達は、あんな決定を下した俺に、呆れてるかもしれねえな。山崎……実際俺はな、あの連中が、愛想尽かして飛び出て行かなかったことに、ちっと感謝してんだよ』
 会議の後、俺を部屋に呼び寄せたあの方が仰っていた言葉を改めて思い出す。
 あの時の副長は、端正な顔に苦みの混じった笑みを浮かべ、そんなことを言われていた。
『副長……』
 思わず小さく呼び返すと、深い紫色の瞳が、またふっと細くなる。
 そうして愛しい年上の人は、俺を見たまま小さく一つ顎を引いた。
『だがな……それでも俺に、これ以外に取る道はねえんだ。前に言ったな。武士になりてえ、近藤さんを相応の地位まで担ぎ上げてえ。その為なら、俺はなんだってやってやる。その決意に、変わりはねえよ』
『……』
『勿論、今回の件に関しちゃ、俺も原田や平助と同じように腸が煮えくり返ってるさ。が、どんな汚れ仕事だろうが、今の俺達にそれを拒否する力はねえ。なら今は、一刻も早くこんな糞みてえな命令を受けずに済むように、前を向いて進む以外にねえだろう』
 苦渋が滲むその言葉に、俺は勿論顎を引く。
『はい。俺もその為に、全力を尽くすつもりです』
『山崎……』
 名を呼ばれ、俺はそこで少し眦の力を抜く。
『それに、貴方のそんなお考えをわかっているのは、きっと俺だけではありませんよ。……副長が敢えて口にされずとも、原田さんも藤堂さんも、本当はちゃんと理解されている。俺はそう思います』
『そうか?』
『当たり前です。俺などより多くの時間を貴方と共に過ごして来たあの方々が、それに気付かない訳がないでしょう』
 はっきりそう宣言すれば、俺の言葉に、土方さんは少し表情を和らげる。
『だといいけどな。……ありがとよ、山崎』
『いえ……』
 自分の言葉で、大切な方の端正な顔に笑みが戻る。
 その事実に、俺は少し高揚を自覚した。
 ……。
 そうだ。
 例え、人を化け物に変える薬の為であろうとも、副長の命令とあらば、俺は己が力を尽くすことに迷いなどありはしない。
 ただ……。
 その反面、俺はやはりこうも考えてしまう。
 もう二度と、美しいあの方の顔を、自責と後悔に歪ませるようなことはしなくない、と。
 そのためなら、俺はどんな危険や苦労であろうと、厭うことはないだろう。
(しかし……武士の身分も大した剣術の腕も持たないこんな俺に、いったいどれだけのことは出来るのだろうか……)
 刹那。
 不意に伸ばされた指が、俺の右手の甲に触れた。
「っ!」
 思考を途中で断ち切られ、思わず視線を横へ移す。
 するとそこには、横になった友人が、不安そうにじっとこちらを見つめていた。
「……」
『どうした?』
 声を無くした年下の友は、尋ねる代わりに一つ小さく首を傾げる。
 ……。
 どうやらいつの間にか、俺は自身の考えに深く沈んでいたらしい。
(……まったく、看病に来て心配されては世話がないな)
 内心そう呟いて口角を持ち上げると、俺は彼を見返したまま、小さく左右に首を振った。
「何でもないんだ。すまない、ちょっと考えごとをしていた」
「……」
「大丈夫だ。君が心配するようなことは何もない」
 重ねてそう口にすると、緋色の瞳が不意にふっと険しくなる。
『…本当か?』
 明らかにそう言いたげな顔。
 そこにはっきり浮かんだのは、露骨な疑問と苛立ちの色だ。
 どうやら彼は、「大丈夫」という俺の言葉を端から信じていないらしい。
「井吹……」
 そんな彼に、また口許の苦い笑みを深くすると、俺は乱れてしまった彼の髪に右手の指でそっと触れた。
「……?」
「本当に、何でもないんだ。……ただ、今夜は一段と冷えそうだから、火鉢の炭を買い足しておいた方がいいだろうかと、そんなことを考えていた。ただでさえ、まだ体力が戻っていないのに、今君に風邪を引かれては、大事になりかねないからな」
「……」
「そうだ。もう一度眠る前に、茶でも飲むか?身体が温まった方がぐっすりと眠れるだろう」
 俺の下手な言い訳を、井吹が果たして信じたのか、それはかなり疑わしい。
 が、暫し俺を見つめた後、俺の友は小さく首を横に振った。
 どうやら、飲み物は必要ない、このまま休むと言いたいらしい。
「井吹」
 もう一度名を呼ぶと、年下の友人は不満げに唇を引き結び、ついと視線を横へ逸らした。
 ……。
『もういい!どうせ俺が何言ったって、お前は俺に話す気なんかないんだろ?』
 自分の耳に、失われた彼の声が聞こえた気がした。
 口が利けない井吹の真意はわからない。
 しかし、こうして落胆した様子を見れば、胸の奥に苦いものを覚えずにはいられない。
(すまない、井吹……)
 直接伝える訳にはいかず、俺は心の奥底で謝罪の言葉を口にする。
 尤も、罪悪感を覚えたところで、今の新選組の内情を教える訳にはいかないのだが。
「……」
 あんなかたちで疎遠になってしまったのだから、当然井吹も、新選組の動向が気になっているのだろう。
 実際彼は、今も時折俺を見つめて、何か聞きたそうな顔をする。
 だが、俺は故意に、彼のそんな視線に気付かない振りをした。
 井吹はもう、隊を離れた人間だ。
 今俺が、感情に流されて悪戯に彼に話をすることは、組織や副長達への裏切りであると同時に、井吹自身にも不利益にしかならないだろう。
 彼はこれから、口が利けないこの身体で、進むべき道を自ら探さなければならない。
 あの場所にいた事は、早く忘れた方がいいんだ。
「井吹」
 もう一度名を呼んでも、井吹はこちらを見ようとしない。
 俺はそんな彼に小さく苦笑し、先程髪に触れていた手で、掛け布団の位置を直した。
 瞬間。
僅かに覗いた隙間から、喉に巻かれた白い布が目に入る。
 ――っ!――
 幾多の凄惨な事件を起こし、芹沢局長を狂気へ追い込み、自分から声を奪ったあの薬の開発が、今もまだ新選組の手で続けられている。
 そう伝えたら、心根の真っ直ぐなこの友は、どんな顔をするだろう。
 そう考えれば、また胸の奥が大きく軋む。
「っ……!」
 変若水は、欠陥品だ。
 いかに身体能力を高める効能があろうとも、人間から理性を奪うあの薬は、人に狂気や殺戮、苦しみしか齎さない。
 かつての快活さが鳴りを潜めたこの友人の姿を見れば、それは最早、明白と言えるだろう。
 ならば、例えそれが幕命であろうとも、あんな薬に決して関わるべきではないと、俺は本来副長を止めるべきなのかもしれない。
 だが……。
 そこまで考えて、俺は小さく首を振った。
 だが、俺はいかなる道であろうと、副長とともに歩むことを、もう決めた。
 今そんな俺が為すべきは、あの方の命令の下、少しでも犠牲を出さぬよう、一刻も早く我々の目指す場所へ辿り着くことが出来るよう、力を尽くすことだけだ。
(……本当は、そんな俺にはこんなふうに井吹の世話をする資格もないのかもしれないが)
 刹那。この一月、幾度も考えて来たことが、また不意に頭を擡げる。
 が、今は自分を置いて他に、この友人の世話を出来る者は誰もいない。
(ならば……例え自分が隊務で何をしていようとも、井吹だけはちゃんと守ってやらなければ……)
 自らに固く言い聞かせて、俺はまた小さく両の眉を寄せた。

 一刻後。
 俺が屯所に帰り着くと、何やら周囲に不穏な気配が漂っていた。
 上手く言えないが、空気が妙に張り詰めている。
 特に普段は静まり返っている筈の前川邸の周囲がやけに騒がしい。
(これは……!)
 変若水や羅刹に直接関わっている場所だけに、俺は嫌な予感を募らせずにはいられない。
(……まずは、状況を確認し、副長の指示を仰がなければ)
 直後そう判じると、俺は急いで門を潜り、敬愛する上役の部屋を目指し、一直線に駆け出した。
 と……八木邸の玄関に差し掛かった時のことだ。
「あ、山崎君」
 俺は不意に、自分とは反対に屋外へ出るところだった沖田さんと鉢合わせた。
「何だ、戻って来たんだ。そのまま外出していれば、巻き込まれずに済んだのに。君も本当に運が悪いね」
 皮肉屋の上役は、俺を見るなり、不敵な笑みを口許に浮かべ、そんな言葉を口にする。
「……沖田さん、一体何がおっしゃりたいのです?巻き込まれるとは、一体どういう意味ですか?」
 彼の物言いは、相変わらず俺の神経を見事に逆撫でしてくれる。
 だが……今そんなことは後回しだ。
 なるべく平静を装いながら、俺は彼にそう尋ねる。
 しかし、当の沖田さんは、俺の問いにただ大柄な肩を竦めた。
「さあ、何だったかな?」
「沖田さん!」
「気になるなら、土方さんのところへ行けば?だいぶ前から、君を探していたみたいだし」
「……」
 話を振っておきながら、自身は核心に決して触れようとはしない。
 そんな彼の言動に、またぐっと腹立たしさが湧き上がる。
 しかし、事態は急を要している。
 今はここで言い合いなどしている時ではないだろう。
「……わかりました。ではそうします」
 ぶっきらぼうにそう答えて、俺は肩を怒らせながら、長身の人の横を擦り抜ける。
「山崎君」
 すると直後。
 そんな俺に、またしても沖田さんの不真面目な声が飛んで来た。
「……沖田さん!今度は一体何ですか?お互い暇ではないのですから、呼び止めるなら一度きりにしてください」
 今度こそ怒鳴りたいのを辛うじて堪え、俺は振り向き彼を睨む。
 すると長身の人は、僕と真っ直ぐ目を合わせ、不意にふっと表情を引き締めた。
「……?」
「一つだけ、君に忠告をしてあげるよ。君は全然弱いんだから、いくら役に立ちたいからって、下手なことはしないようにね。じゃないと……死ぬよ」
「ッ?!」
 低く潜められた声。
 いつになく真剣なその響きに、俺は小さく息を飲む。
(っ……つまり事態は、それ程に逼迫している。ということか……)
 沖田さんの言動から、改めてそう確信し、俺は唇を引き結ぶ。
(ならば、尚更急がなければ……)
「失礼します!」
 俺は自分を見据えたままの沖田さんに一礼し、すぐさま、また踵を返す。
 そうして今度は彼の返事を確かめもせず、冷たい廊下を奥の間へと一目散に駆け出した。

「入れ」
「失礼いたします」
 入室の許可を得てから、素早く襖を横へ引き、自身の身体を部屋の内に滑り込ませる。
 振り返り視線を移せば……。
 案の定、副長は非常に難しい顔をされて、無言で俺を迎えてくれた。
 常よりも鋭さを増した切れ長の双眸に、俺はまた事態の深刻さを痛感する。
「只今戻りました。遅くなりまして、申し訳ありません」
 自分を見据えた紫の瞳を真っ直ぐ見返し、俺は真っ先に自身の遅参を謝罪した。
 しかし、俺のその言葉に、土方さんは不意に小さな笑みを浮かべる。
「いや、構わねえよ」
「しかし……!」
「本来なら今日お前は非番なんだ。不測の事態が起きた時に、屯所を留守にしてたって、責なんかありゃしねえさ」
 そうして厳格な上役は、俺にそんな言葉をくれる。
 恐らく土方さんは、俺を気遣ってくださったのだろう。
 だが俺は、副長の「不測の事態」という言葉に、さらに表情を引き締めた。
「……一体、何があったのですか?玄関でお会いした沖田さんには、副長から話を聞けと言われましたが」
 ここで遠回しに尋ねたところで始まらない。
 俺は端的に、今の状況を彼に問う。
 すると土方さんはまたきつく細い眉を寄せ、悔しげにぐっと奥歯を噛み締めた。
「副長?」
「……羅刹が一体、敷地外へ逃走した。しかも、いつ人を襲わねえともわからん奴が、だ」
 その言葉に、俺は鋭く息を飲み込んだ。
「ッ……しかし、山南副長の研究は、一定の成果を上げていた筈でしょう?今、前川邸に収容された羅刹達は、血を見ぬ限り理性を失うことはないと、説明があったと記憶していますが」
「ああ、そうだ。だがな、さっき山南さんがその血を奴らに見せちまったんだよ」
「っ?!」
 俺が驚きに目を見張ると、土方さんはその反応にまた苦虫を噛み潰す。
「血を見ただけで狂っちまうなら、兵隊としちゃ使えねえだろ。だから、山南さんが改良した変若水が、どの程度これを是正出来ているか実験しろって命令が今日下ったんだ。で、そいつを実際試した結果が、この様だ」
「そんな……」
 苦渋に満ちた副長の言い様に、俺はそれ以上返す言葉を持たなかった。
『だが、どうやら我々にとって、歓迎出来る内容ではなさそうだ』
 今朝、斉藤さんと交わした会話を、改めて思い出す。
 どうやら事態は、悪い予感通りに進んでしまったらしい。
 しかし、いくらそれが馬鹿げたものであろうとも、俺達には幕府からの命令を拒む権利などありはしない。
「ッ…!」
 あまりに歯痒い現状に、俺はうまく言葉が出ない。
 土方さんは、そんな俺を暫し見つめ……だがやがて、おもむろにまた薄い唇を解いた。
「今、斎藤や原田、総司達が、羅刹を探しに町へ出てる。だが、なんせ京は広過ぎてな。捜索を始めて半刻が過ぎたってのに、まだ行方すら掴めちゃいねえんだ」
 その言葉で、俺は自分が呼ばれた理由を、はっきりと理解した。
 俺は副長の瞳を見上げ、大きく一つ顎を引く。
「承知しました。では俺も、直ちに捜索に加わります。羅刹の存在を知らぬ者を加える訳にはいきませんし、日が落ちれば、奴らは獰猛さを増してしまう。事は一刻を争いますので」
 俺の提案に、土方さんは表情を引き締め、一つ小さく頷いた。
「ああ、頼んだぜ」
「はい!」
 信頼の証の激励に一つ深く頭を下げ、俺はすぐさま立ち上がる。
 しかし刹那。
「っ……山崎!」
 不意に伸びて来た長い指に腕を捕まれ、俺はそこで動きを止めた。
「……副、長?」
 驚きぎくしゃくと振り向けば……。
 いつの間にかすぐ近くに来た深紫の瞳は、厳しさを増して、俺を真っ直ぐ見つめていた。
「……?」
「いいな、山崎。相手はあの羅刹だ。くれぐれも無茶なことはするんじゃねえぞ」
「ッ……!」
(副長……)
 ともすれば己の力量を考えず先走ろうとする俺を、副長は鋭く厳しさ言葉で制する。
「……」
 大切な人が、こんなにも真剣に自分を案じてくれている。
 その事実に情けなさを覚える半面、嬉しさに震える心を実感し、俺は思わず自分自身に苦笑した。
 だが無論、この方をこのままになどして置けない。
「土方さん」
 俺は小さく呼び掛けると、逆の手で腕を掴んだ副長の指を、静かにそっと包み込む。
「……っ!」
「大丈夫です。俺は決して、貴方の期待を裏切るような真似はしません」
 そうして俺は、不安に駆られた恋人を安堵させるべく、囁くようにそう告げた。
「山崎……」
 返された呼び声に少し笑みを深くすると、俺はゆっくり手を外し、今度こそ立ち上がる。
「では、行って参ります」
 最後振り返って深々と一礼し、俺はそのまま来た時とは逆に、暗い廊下を玄関へと駆け出した。


 結局この日逃走した羅刹は、夜半のうちに斎藤さんが発見し、直ちにそのまま処分された。
 だがそれが、事件のほんの一端に過ぎないことは誰の目にも明白だった。
 変若水と、それが生み出す化け物・羅刹。
 この二つを保有し続けている限り、こうした事件は幾らでも起こってしまうだろう。
 この日の深夜、捜索から戻り一堂に会した幹部の方々は、皆今の状況に明らかに疲弊し、苛立っていた。
 が……胸にどんな葛藤を抱えていようと、俺が尊敬する新選組の幹部達は何も言わない。
 今の状況に抑え難い不安と焦燥と憤りを抱えながら、彼らはただ、口を閉ざし目の前の隊務に臨もうとする。
 そんな彼らの姿に俺は、武士というものを真髄を見せつけられたような気がした。





<後書き>
前回で、前半が一段落して、今月より中盤戦に突入です。気付けば、山崎の近くにいる人達が誰も彼も出て来ることになっていました。おかげで、幕間の話なのに不必要に長くなってしまったような気がします。次回はいよいよ千鶴ちゃんが登場予定。まだまだ先は長いですが、頑張ります!


posted by 二月 at 16:20 | 山崎×土方連作「夢の蹟」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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