2012年01月31日

「決断」 山崎×土方

山崎×土方連作第15弾です。
アニメや黎明録をもとに大坂から江戸へと移る富士山艦の中での出来事を描いています。
土方視点。上記についてのネタバレを含みます。



ご了承頂ける方のみ、本文へお進みください。










 明かり取りの小窓一つの船室で、俺はただじっと、傍らにある小さな炎を見つめていた。
「……」
 ……。
 特に何をしている訳じゃねえ。
 さっきまで甲板で話をしていた斎藤には、「少し休む」と言ってここに戻ったが、横になる気もさらさらねえ。
 いや……。
 正直な話、とてもじゃねえが、おちおち寝ちゃいられねえし、仕事も何も手につかない、と言うのが本当だ。
「…ッ!」
 延々と胸の内を吹き荒ぶ嵐に、俺はまた、きつく唇を噛み締める。
 情けねえ話だが、この船に乗ってから、俺はずっとこんなふうに、一人落ち着かねえ夜を過ごしていた。
 それでも、見るからに荒れて、仲間連中に心配を掛けちまった先月に比べりゃ、少しはマシと言えるのか。
 少なくとも、表向きはまともに指揮官の役目をこなす自分自身に、俺はそうも考える。
 だが、自分の心が、今とても平静とは呼べねえ状況だっていうことは、他でもねえ、俺自身が嫌になる程よくわかっていた。
 そう……。
 この部屋以外で何でもねえ振りが出来ているのは、ただ単に交渉や指示の為に、否応なく別なことを考えさせられているからだ。
 怪我をした近藤さんは、まだ床に伏し、動くことさえままならねえ。
 あの人から新選組を預かったうえ、あんな負け戦まで演じちまったんだ。
 これ以上、不様な真似をする訳にはいかねえだろう。
 それに……「あいつ」も絶対に、そんなことを俺に望んじゃいねえ筈だ。
 俺はもう二度と、近藤さんやあいつの期待を踏みにじるような真似はしたくない。
 その一心と意地だけで、俺は人前では平静を装って、強引に目の前にある仕事だけに向かっていた。
 だが、そんなことをしていても、心の嵐は治まらない。
 いや、むしろそんなふうに取り繕う分、一人になれば、途端に反動が押し寄せて来るから厄介だ。
『副、長……』
「っ…!!」
 行灯の炎の向こうに、自分を見据える菫色の双眸が朧気に浮かび上がる。
 乱れた吐息。
 苦痛にきつく寄せられた眉。
 唇の端から伝う鮮血。
 ……それでも無理に笑おうとしたんだろう。
 色を失った唇の端が、不意に微かに持ち上がる。
 ――っ!――
「山崎……っ!」
 堪らず俺は、あの時と同じように、奴の名を口にする。
 こうなったら、もうあいつの幻影を追い払うことなんて、そう簡単には出来やしねえ。
 あいつがいない……。
『副長、山崎です。今、少々宜しいでしょうか』
 あの声が聞こえない。
 どれだけ待とうが、報告や指示を得る為に、あいつがここに来ることは……ない。
 その事実は今この瞬間も、俺の心に重く重く圧し掛かっているんだから。
 ……。
『先程、千鶴から聞きました。相変わらず血は止まらず、高熱が下がる気配もないそうです。松本先生の指示の元、可能な限りの処置は施しておりますが、依然、予断を許さない状況だと』
 刹那。
 淡々と事実を告げる斎藤の声が、耳の奥に蘇る。
 甲板で、一通りの報告を済ませた後、奴は気遣わし気に俺を仰ぎ、静かな声でそう告げた。
『……そうか』
 俺はそれに、ただ小さく頷くことしか出来なかった。
『……』
 斎藤は、そんな俺を無言でじっと見詰めて来る。
(副長、いつ容態が急変するとも知れません。……今のうちに、山崎に会いに行かれては如何ですか?)
 寡黙で義理堅いこの男が、そう言いたいんだろうことは、何となくわかっていた。
 いや、実際俺が奴の立場でも、そう言いたくなっただろう。
 だが俺は、そんな斎藤の視線や意図に、敢えて気付かねえ振りを通した。
 ……。
『何を……しているんですか?』
 耳の奥に、苦しげな奴の声が蘇る。
 あの日、新八と左之助に運ばれて行く姿を見送って以来、俺は山崎と会っちゃいねえ。
 だから俺の中の山崎の記憶は、まだあの日で止まったままだ。
 今のあいつの容態が、決して楽観視できるもんじゃねえことは、勿論俺も理解している。
 考えたくもねえ話だが……。
 このままじゃ、不意に意識を手放したまま、それっきりって可能性もあるだろう。
 はっきりと口にされた訳じゃねえが、様子を見に行った連中は、皆が皆、暗に俺にそう仄めかす。
 だから俺は、あいつの顔を見るまでもなく、もうあまり時間はねえんだろうと、半ば覚悟は決めていた。
 だが……。
 それを知りながら、俺はまだ、あいつに会う覚悟が持てずにいる。
 まったく……新選組の鬼の副長・土方が、呆れたもんだ。
 俺は今この瞬間も、別離の時を前にして、あの馬鹿に掛ける言葉が見つからなかった。
(何を言える……?もし、次が最期だとしたら、俺はあいつに何を残してやればいい?!)
 そう。
 あの日から、俺はずっとそれを考え続けている。
 目の前の状況を直視しねえ、軽率な励ましや気休めは、はっきり言って無意味だろう。
 それならば、俺に言えるのは、今までの忠節に対する賞賛か?
 勤勉な働きへの労いか?
 それとも、もっと個人的な意味も含めた四年半への感謝の言葉か?
 ……。
 だが、そうして浮かぶどの答えにも、俺はてめえの中の違和感を、拭うことは出来なかった。
 そうしてあの日から丸5日考えに考えて……。
 どんなに頭を悩ませても、俺はまだ、最良の答えを出せずにいる。
 それは多分、俺自身の感情が、上役として相応しい選択肢とは、まったく違う方向を向いちまっているせいなんだろう。
(それなら……)
「…っ!」
 刹那。
 もう一つの選択肢が脳裏を過ぎり、俺は鋭く息を飲む。
 ……。
 そうしておもむろに懐に手を差し入れると、俺はあるものを、そっと目の前に取り出した。
「……」
 眼前に晒された、毒々しいまでの赤。
 びいどろの小瓶の中で禍々しく輝くその色に、反射的に俺はきつく眉を寄せる。
 ……まったく、相変わらず、見ただけで胸糞が悪くなるような代物だ。
 だが今は、これが一番俺の本音に近いものだと言っても過言じゃねえんだろう。
 そうだ。
 俺は決して、山崎との潔い別れなんざ望んじゃいねえ。
 死なせたくない。
 離したくない。
 生きられるなら何としても生きて欲しいと、心底俺はそう願っている。
 そして……。
 あいつに別れを告げずに済むたった一つの方法は、今こうして、自分の手の中に存在する。
 それが事実だからこそ、俺は尚更、自らの心をいつまでも決めることが出来なかった。
(山崎……!)
 山崎に生き延びて、これからも傍にいて貰いたい。
 それが、見栄も外聞もかなぐり捨てた、掛け値なしの本心だ。
 だが……。
 だが、今この状況で、あいつに「生きろ」と告げるのは、あまりに残酷過ぎるだろう。
 あいつが生きるということは、つまり羅刹となること……人であることを捨てるっていうことだ。
 そして……当の山崎本人は、決してそれを望んじゃいねえ。
 この船に乗る直前、苦虫を噛み潰してやって来た山南さんが、俺に奴のその意志を、はっきりと伝えてくれた。
 まあ尤も、あの人の用件は、単なる状況報告だけじゃなかったが。
『土方君。君も山崎君を説得してください。彼は有能な監察方、失うにはあまりに惜しい人材です。なのに山崎君は、私の説得には、まるで耳を貸そうとしない。その点、君の命令ならば、彼は必ず従うでしょう』
 俺に自分が改良した変若水の小瓶を差し出しながら、山南さんは不機嫌そうにそう告げる。
『山南さん……』
『私には、到底理解出来ませんね。新たな力を得て、これからも君や新選組の為に働けるこの道を、何故山崎君は、ああも頑なに拒むでしょうか。……まったく、実に愚かしい』
『……』
 今回の戦いでは、薩長軍の銀の弾丸で、羅刹隊にもかなりの数の被害が出た。
 そんな山南さんにとって、山崎は喉から手が出る程欲しい逸材に違いねえ。
 そんな奴に自分の厚意を袖にされ、山南さんの口調はいつも以上に刺々しい。
 だが、当然俺には、山崎が変若水を拒んだ理由もよくわかる。
 いや……俺は今まで、散々変若水や羅刹の存在に、辛酸を嘗めさせられて来た。
 山崎の決断が、そんな俺の胸の内を慮ってのことなのは、まず間違いねえだろう。
『ひとまず、こいつは預からせて貰う。……どうするかは、少し考えさせてくれ』
『土方君!』
『山南さん……山崎の件は、俺が預かる。あいつは、隊規に背いた連中とは違うんだ。無理矢理羅刹化を命じる訳にはいかねえよ。……そうだろう』
 だから俺は、詰め寄る山南さんを静かに制して、びいどろの瓶を受け取った。
 その後も、山南さんは懲りもせずに、山崎の元へ説得に出向いているようだったが、強情な山崎は、頑としてそれに応じない。
 そんな話を聞けば尚更、自分の勝手な希望を告げる訳にはいかず、俺の足は、さらに山崎の部屋から遠退くことになっていた。
「……」
(俺は、一体どうすりゃいい……?)
 びいどろの小瓶を握り締め、俺はまた同じ自問を繰り返す。
 山崎は、この4年半、誰よりも、何よりも、俺のことを考えて来た。
 馬鹿な俺を諌める為に、先月はあんなことまで仕出かしたんだ。
 それは絶対に、間違いねえ。
 いや、あの一件がなくたって、俺は端からあいつの想いを疑っちゃいねえ。
 だから……山南さんが言ったように、俺が一言「変若水を飲め」と命じれば、あいつはきっと従うだろう。
 お互いに人じゃねえ身になっちまうが、それでもあいつが変わらず傍にいることは、俺自身の願いでもある。
 だが……。
 その命令は、山崎から最後に残った「死」の尊厳まで奪うことに他ならねえ。
 忠義も命も恋情も、全てを俺に捧げてくれたあの馬鹿から、俺は人として死ぬことまで、取り上げるのか。
 そんなことが、許されるのか?
 俺は、あの真っ直ぐな憧れと恋情を向けられた男として、むしろ潔く、あいつを見送ってやるべきじゃねえのか?
 その想いは、いつまでも拭えない。
 どんなに考えても、俺には答えが見つからねえんだ。
 いや、時間がねえと焦れば焦る程、俺はまたさらにわからなくなって来る。
 ……。
 当然、こんなことを、他人に話せる筈もねえ。
 だから俺は、また薄暗い船室で目を閉じて、堂々巡りの思考の出口を探し続ける。
『副長……』
 耳の奥に、何度も何度もあいつの声が蘇る。
 その度に、心が激しく波を打ち、俺は堪らずきつく唇を引き結んだ。

 その時だ。
 不意に控えめに、戸を叩く音がした。
「っ……誰だ?」
 急に現実に引き戻され、俺は思わず、鋭い声で呼び掛ける。
 だが、そのまま幾ら待ってみても、相手からは、何の答えも返らなかった。
「どうした?俺に用があるんじゃねえのか!」
 苛立ちの分、二度目の声は、さらに厳しいものになる。
 しかしそれでも、戸の向こうに立つ誰かは、無言でそこにいるだけだった。
(くそっ!何なんだ……)
 沈黙を続ける相手に向かって内心毒づきながら、俺は変若水の瓶を仕舞って立ち上がる。
 何処のどいつか知らねえが、無作法者には、礼儀を教えてやらなきゃならねえ。
 万一それが、今後新選組に籍を置くことになる仮隊士連中だったりしたら尚更だ。
 そんなことを考えながら、俺はつかつかと戸口へ歩み寄る。
 そうして俺は、そのまま勢いよく、引き戸の取っ手を横へ引いた。
「っ?!」
 俺の唐突な行動に、そいつはかなり驚いたらしい。
 奴は俺の姿を目にするなり、弾かれたように顔を上げる。
 急な動きに、癖のある前髪が小さく揺れる。
 真っ直ぐに俺を仰いだ緋色の瞳が、幾度も瞬きを繰り返す。
 ――ッ?!――
 その顔を目にした瞬間、今度は俺が、驚愕に鋭く息を飲み込んだ。
「お前……井吹、か……?」
 そう。
 そこには、俺が全く予想だにしなかった男が立っていた。
 奴……井吹龍之介は、こっちの声に答えもせず、ただ呆然と俺の方を見上げている。
 が、やがて。
 不意に我に返ったように目を見張ると、奴は俯き、こくりと小さく頷いた。
「……」
 俺はそんな奴の顔を、暫くの間、無言でじっと見詰めていた。
 ……。
 こいつに会うのは、4年振りになるんだろうか。
 懐かしいその顔に、俺はふと、そんなことを考える。
 あれから今まで、一体どんなふうに生きて来たのか。
 顔立ちこそ、当時と変わっちゃいなかったが、井吹の人相や人柄はだいぶ変わっちまったようだ。
 現にこんな時、昔のこいつは笑顔の一つも浮かべたもんだが、今は目を臥せたまま、もう俺を見ようともしねえ。
 ふと見れば、井吹の喉には細く裂かれた布が厳重に巻かれている。
 その布に、俺は奴が答えなかった本当の理由と、こいつが此処にいる訳をはっきりと理解した。
 ……そうだ。
 あの雨の夜、芹沢さんに喉を刺され、井吹は声を失った。
 その点も考慮して、俺は山崎の願いを聞き入れ、こいつの命を助けてやると決めたんだ。
 屯所を離れて以降の井吹のことについて、俺は今まで、山崎に一切説明を求めなかった。
 だから、こいつが今の今まで何処で何をしていたのか、勿論俺は何も知らねえ。
 だが……あれは何時のことだったか。
 たった一度だけ、山崎から「井吹を松本先生に診せたい」と許可を求められたことがある。
 そしてその数日後、山崎は俺の元を訪れると「もう井吹の世話は不要になった」と、手短な報告を行った。
 今にして考えりゃ、それはつまり、井吹は松本先生のとこに身を寄せていたってことだったんだろう。
 それなら、今この船に井吹がこうして乗っていても、何も不思議なことはねえ。
「井吹」
 もう一度、今度ははっきり声に出して、俺は奴に呼び掛ける。
 と、直後、井吹は目を臥せたまま、右の腕をぐいと水平に持ち上げた。
「……?」
 その指は、明らかに、通路の奥を指し示している。
 いや、それだけじゃねえ。
 低い位置にある肩は、抑え切れない感情に、小刻みに震えちまっている。
 引き結ばれた唇は、血が出る程きつく噛み締められ、改めて見れば、前髪の隙間から微かに覗いた目尻には、赤く擦った痕があった。
(こいつ……!)
 瞬間。
 脳裏に出来たばかりの監察方として、走り回っていた二人の男の姿が浮かぶ。
『まったく君は。監察方として働こうという、心構えが足りないんじゃないか?』
『うるさいな!だから俺は、隊士になる気も、監察方の仕事をする気もないんだよ。何べん言ったらわかるんだ?!』
 ……。
 ………。
「井吹」
「っ?」
「……あいつが、危ないんだな?」
 十中八九、そうだろうと確信しながら、俺は端的にそう尋ねる。
 すると井吹は、またさらに顔を伏せて、はっきり一つ頷いた。
 ――ッ!――
 刹那、とうに覚悟を決めていた筈の胸の奥が軋みを上げる。
「……」
 ……どうやら、あれこれ考えている時間はもうねえらしい。
 行くしかねえ。
 うだうだ考えている場合じゃねえだろう!
 今あいつに会わずにいたら、俺はきっと、自分で自分が許せなくなる。
「……わかった。呼びに来てくれて、ありがとよ」
 だから俺は、井吹にそう告げ、奴が示した方向へと歩き出す。
 と、直後。
 不意にあることを思いついて立ち止まると、俺はそのまま、また後ろを振り返った。
「なあ、井吹」
「……?」
「お前が元気そうで、安心したぜ。……山崎は多分、言えなかっただろうからな。俺が代わりに伝えておく」
 そうして、少しだけ口角を持ち上げて、俺はそんな言葉を掛ける。
「っ!!」
 その一言に、井吹の顔がまた持ち上がる。
 4年前に比べると、穏やかになった緋色の瞳を見返して、俺は微笑み、小さく一つ頷いた。

 山崎は、船の下層部の一番奥の部屋に一人、寝かされていた。
 重傷を負った他の隊士連中は、別の部屋で雑魚寝だが、あいつは監察方の立場上、一応扱いは特別になっている。
 その部屋は窓一つなく、じめじめとして薄暗かった。
 四六時中この中じゃ、気が滅入るうえ、時間や日付の感覚さえ、おかしくなっちまいそうだ。
 まあ尤も、高熱に苦しむ山崎は、そうじゃなくても、周囲の状況を把握する余裕なんざねえんだろうが。
「……」
 戸口に立ち、僅かに開けた隙間から中の様子を窺うと、頼りなく周囲を照らす行灯と、少女の背中が目に映る。
「もう少ししたら、また水を替えに行って来ますね。それから、少し早めですけど、松本先生に次の分のお薬を戴いて来ます」
「……」
「……そんな、御礼なんて要りません。どうか、私のことは気にしないで、ゆっくり体を休めてください。山崎さんには、早く良くなってもらわないと困るんですから」
「……」
「そうですよ。私も医療方の山崎さんには、聞きたいことがたくさんあるんです」
 ……。
 あまりにか細い山崎の声は、廊下には届かない。
 だから俺に聞こえるのは、怪我人を気丈に励ます優しい少女の声ばかりだ。
 だが……。
 目の前にある千鶴の背中は、明るい声には不似合いな程に強張っている。
 きっと千鶴は、今にも泣きそうになりながら、それでも懸命に山崎に希望を与えようと声を掛け続けているんだろう。
 そして、普段は他人の感情の機微に聡い山崎が、その様子にまるで気付いた様子もねえ。
「っ!」
 刹那。
 心の奥底から、苦いものが湧き上がる。
 俺はきつく奥歯を噛むと、冷静さを取り戻す為に、一つ深く嘆息する。
 そうしてそのまま、ゆっくり扉に手を掛けた。
「あ……土方さん……」
 戸が開くと、千鶴は気付いて弾かれたように振り返る。
 鳶色の大きな瞳で真っ直ぐ俺を捉えると、彼女は堪えきれなくなったのか、不意に泣きそうな顔をした。
 ……。
 確実に死が迫りつつある男を前に、その事実を悟られねえよう看病を続けるのは、どれだけ辛い役目だったろう。
 そう思えば、千鶴一人にそれを背負わせちまっていたことへの、後悔の念が押し寄せる。
「千鶴」
「は、はい」
「暫くは、俺が診ている。用があるんだろ?今のうちに済ませて来い」
 だから俺は、少しの間でも、千鶴をここから遠ざけようと、低い声でそう命じた。
「え、ですが……」
 だが、看病を任された責任を重く受け止めているんだろう。
 見掛けに寄らず頑固な千鶴は、すぐに従おうとはしない。
「こいつとサシで話してえんだ。頼む、二人にしてくれねえか」
 だから俺は、千鶴が納得しやすいように、小さく笑い、さらに一言そう付け加えた。
 それを聞いて、鳶色の瞳が複雑そうにまた揺れる。
「……わかりました。では少しの間、お願いします。お話が終わるまでは、他の方達の様子を見に行っていますので、終わったら声を掛けてくださいね」
 しかしやがて、千鶴はやけに神妙な顔をして、静かな声でそう告げた。
「ああ」
(まったく、真面目な奴だ……)
 その様子に胸の内で呟きながら、俺は了承の意を伝える。
 千鶴はいつだって、俺達の役に立ちたいと一生懸命だ。
 こいつ自身はまるで気付いちゃいねえようだが、この気丈さや一途さに、俺達はどれだけ助けられたかわからねえ。
 だが、今のこいつを支えるのは、俺の役目じゃねえだろう。
「そうだ、千鶴」
「はい?」
「斎藤がさっき、お前が働き過ぎじゃねえかと気にしてたぜ。構わねえから、少しあいつと話でもして来い」
 だから俺は、不器用なこいつの背を、縋るべき相手の方へと押してやる。
「土方さん……」
 と、刹那。千鶴の頬が不意に赤く染まっていく。
 素直なその反応に口角を持ち上げると、俺は「早く行け」と、もう一度彼女を促した。
 それを聞いて、千鶴は手元の桶を持って立ち上がる。
「はい、では失礼します。……山崎さん、ちょっと行って来ますね」
 最後に山崎に一言声を掛けてから、千鶴は俺に頭を下げて、そのまま部屋を出て行った。
「……」
 千鶴の足音が遠ざかると、途端に部屋は重苦しい静寂に包まれる。
 ……。
 俺は、少し躊躇した後、落ち着かねえ胸の鼓動に舌打ちしながら、そっと山崎に近付いた。
「――っ!」
 床に臥した恋人の顔を目の当たりにした瞬間、俺は鋭く息を飲む。
 ……見るに堪えないってのは、こういうことを言うんだろう。
 会わなかった、たった5日程の間に、山崎はすっかり窶れちまっていた。
 いつでも強い意志を宿した菫の瞳は、高熱の為に精彩がなく、顔色も酷く青白い。
 元々小柄で細身な奴じゃあったものの、痩せ衰え、頬がこけたその顔は、見ていて痛々しい程だ。
 腹部の傷は、真新しい布で覆われて、そこに今は血の痕はなかったが……これだけ経っても傷が塞がっていないんだ。
 体力の消耗も激しいに違いねえ。
 乾ききった唇からは、絶えず苦しげな吐息が漏れ、真冬だというのに、奴の額には幾つもの汗が滲んでいた。
 ……。
 恐らく、そう永くはもたねえだろう。
 生気の感じられないその顔に、俺は改めてその事実を噛み締める。
 そうして俺は、また一歩、奴の方へ近付いた。
「山崎……」
 まだ、告げる言葉がわからねえまま、枕元に屈み込み、ぼそりと短く呼び掛ける。
 と、刹那。
 山崎はほんの少し首を擡げて俺を見ると、不意に小さく微笑んだ。
「…副、長……」
「っ!」
 か細い声で呼び返され、鼓動が大きく跳ね上がる。
 山崎は、そんな俺の動揺に全く気付いていない様子で、さらに無理矢理、口角を持ち上げた。
「良かった。……もう二度と、お会い出来ない、かと…思って、いました……」
 そうして奴は、心底嬉しそうな声で、そんな言葉を口にする。
 ――っ……!――
 ……胸が、軋む。
 馬鹿な俺を庇った挙げ句、自分自身の命が潰えかけているこの状況で、こいつは俺の遅参を責めないどころか、こんな顔で笑うのか?
 そう思えば、やりきれなさで頭がおかしくなりそうだ。
 だが今は、そんな醜態をこいつに見せる訳にはいかねえ。
 ……そうだ。
 嘆くのも悔やむもの、ここを出た後でいいだろう。
「ああ、悪かったな。すっかり遅くなっちまった」
 だから俺は、強引に笑みを作ると、囁くようにそう答えた。
 それを聞いて、山崎は一瞬、困ったような顔をする。
「…そんな……、とんでも、あり…ません。俺こそ、…お忙しいのに、ご足労を……」
 そしてさらに飛んで来たのは、そんな謙虚過ぎる一言だ。
(ったく、お前は……)
「構わねえよ。んなことは気にすんな」
 あまりにもこいつらしいその言葉に、俺は今度は心の底から苦笑した。
「……」
「……」
 そこでふと、会話が途切れ、俺達は互いの瞳をただじっと見詰め合う。
 俺はここに来てなお、目の前の相手に掛ける言葉を探している。
 そして……山崎も、何か俺に伝えたいことがあるんだろう。
 奴は俺を真正面から見上げたまま、また懸命に唇を解こうとする。
 が、直後。
 一つの言葉も発することも出来ないまま、不意に襲った激しい痛みに、奴は堪らず顔を歪めた。
「山崎!」
「っ…!……副、……長…ぁ……」
 叫ぶように呼び掛ければ、俺の手を求めるように、細い右手が僅かに動く。
 俺は反射的にその指先を握り締め、目を閉じた奴の顔を覗き込んだ。
「山崎っ……?おい、……山崎!山崎!!」
 そうして、恥も外聞もなく、愛しい男を呼び続ける。
 すると山崎は、幾度か胸を喘がせた後、俺の声に応えるようにうっすら両の目を開けた。
 ――っ……?!――
 ……。
 瞬間。
 高熱に潤んだ菫の双眸が、あまりにも穏やかで、俺は一瞬言葉を無くす。
「……副、長………」
「……?」
「申し、訳…ありません……」
 山崎は、押し黙った俺の瞳をじっと見据え、振り絞るように、たった一言そう告げた。
 そうして、それがまるで最期の言葉だと言いたげに、奴はそのまま口を閉ざす。
「っ!」
 短い謝罪に込められた、深く思い理由と意図を察して、胸の奥が大きく軋む。
(馬鹿野郎!!謝るんじゃねえ。お前が詫びることなんざ、何一つねえだろうが!!)
 反射的にそう怒鳴りつけたい衝動に駆られ、俺は刹那、きつく奥歯を噛み締めた。
 ……。
 頭の中に、幾つもの出来事が浮かんでは消えていく。
『副長、失礼致します』
『俺がやります。いえ、ぜひ俺にやらせてください!!』
『お任せください。俺は必ず新選組の……貴方のお役に立ってみせます』
 いつもひたむきに、隊務に取り組むその姿が。
『貴方に頂いた監察方というこの役目、俺は自分の全てを賭して、これからも全うして行く覚悟です』
『土方さん……貴方が近藤局長を相応の地位に担ぎ上げるため、力を尽くされると言うのなら、俺は貴方を誠の武士にするために働きたい』
『だから俺は、貴方にとっての手足でありたい。副長と同じものを目指し、その命を実行し、分かち難いものとして、貴方が抱える罪悪や重責をともに背負っていけたらと、俺はそう思っています』
 ……真正面から俺を見詰める菫の瞳が。
『この件に貴方に責などありません!!』
『当たり前です。俺などより多くの時間を貴方と共に過ごして来たあの方々が、それに気付かない訳がないでしょう』
『副長は、まだお休みにはなられないのですか?』
『俺では心許ないかもしれませんが、いざとなれば、俺が全力で副長をお守りします』
 誰よりも俺を想い、案じてくれたその心が。
『……土方さん、俺は貴方を愛しています』
 真っ直ぐに向けられた恋情が。
(っ、駄目だ……!!)
 刹那。
 俺は自分の感情の箍が外れる音を聞いた気がした。
 胸に吹き荒れる衝動の嵐に任せ、俺は鼻先が触れる程近く顔を寄せ、左手で青白い奴の頬を包み込む。
「……?」
「山崎、わかるか。俺の声が聞こえるな?」
 確かめるように尋ねると、細い顎が微かに揺れる。
 その答えを確かめてから、俺はまた唇を解いた。
「お前は今まで、本当によくやってくれた。もう充分だ。監察方として俺に仕えたこの4年半の働きは、胸を張って誇っていい」
「副、長……」
 消えそうな声で呼び返され、俺は小さく一つ頷く。
「そんなお前に、頼みがある。上役としてじゃねえ。俺個人、土方歳三としての頼みだ。山崎……これからは、俺の為に生きてくれるか?」
 やはり、羅刹になれと命じることは、俺には出来ない。
 なら……。
 俺に出来るのは、てめえの想いを正面から伝え、こいつに選ばせることだけだ。
 情けねえ話だが、それが考えるだけ考えた末に俺が出した結論だった。
「……」
 山崎は、暫く呆然と俺の目を見上げていた。
 が、やがて。
 菫色の双眸は、不意にふっと柔らかな弧を描く。
「っ…?!」
「……今更、でしょう。副長……、俺…は、初めか、ら、……貴方のもの…です……」
 そうして奴は、苦しげな息の合間から、俺にはっきりそう告げた。
 ……。
 迷いのないその眼差しに、俺は山崎の想いの強さを改めて思い知らされる。
(いや……、こいつは端から、こんな嘘がつける奴じゃなかったか)
 そこまで考えて、俺もまた、ようやく口角を持ち上げた。
「そう、だな」
 たった一言呟くと、山崎の目に僅かに安堵の色が広がる。
 それを見て、俺は懐から、さっき仕舞ったびいどろの瓶を取り出した。
 毒々しい赤を目にすれば、これから自分が犯そうとしている罪への罪悪感が、またちりちりと燻り始める。
 だがもう、そんなものは関係ねえ。
 山崎は、俺を受け入れた。
 こいつが共に歩んでくれるなら、俺は罪悪だろうが後悔だろうが、幾らでも背負い込んでやる!
「山崎」
「は、い……」
「忘れるな。……俺は、お前を愛している」
 端的にそう言い置くと、俺はそのまま瓶を開け、中の薬を口に含む。
 そうして俺は、もう一度菫の瞳を見据えた後、初めて山崎の唇に、自分から口付けた。
「……ふ、っ…く………」
 添えた指で細く白い顎をこじ開け、乾いた唇の奥に、深紅の液体を注ぎ込む。
 ただでさえ不規則な呼吸を乱され、苦しげに眉を寄せた山崎は、それでも懸命に、俺の薬を飲み込んだ。
 と、直後。
「くぅ、あ……っ!!……ああ!!」
 呻きのような声とともに、誠実な輝きを宿した菫の双眸が、禍々しい赤へと変わっていく。
「山崎……」
 これでもう、こいつに別れを言うことはない。
 憎しみと嫌悪の対象でしかなかったその色に、今だけは深い安堵を覚えながら、俺は真っ白に染まった恋人の髪に、そっと唇を寄せた。





<後書き>
崎土連作15話をお届けします。今回で、一応中盤戦が終了です。そして……山崎が、こういうかたちで羅刹になりました。井吹の登場も含め、今回の話は、連作の構想段階から決めていました。変若水の存在を知りながら、死を選んだのは、山崎の信念であり美学だと思います。でも、そんな彼が唯一羅刹になることを選ぶとしたら、それは誰よりも大切な土方さんの為じゃないのか?当時、そんなことをあれこれ考えた覚えがありますね。次回以降は、後半戦に入ります。山崎が生きていることもあり、かなり今後は捏造度が高くなると思いますが、一応土方ルートに沿って展開していく予定ですので、よければまたお付き合いください。


posted by 二月 at 18:19 | 山崎×土方連作「夢の蹟」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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